退職日にもらった花束が、まだ食卓に置かれている。
長く勤めた区切りとして、夫婦で旅行へ行こうという話も出た。以前から憧れていた温泉宿、北海道、沖縄、海外。調べ始めると、行きたい場所はいくつも見つかります。
ところが、料金を見た途端、銀行の残高が気になって画面を閉じてしまう。
これまで頑張ったのだから、少しくらい使ってもよい気がする。一方で、毎月の給与が入らなくなった直後に、まとまったお金を使うのは怖い。配偶者へ「高すぎる」と言えば、旅行そのものを否定したように思われそうです。
退職記念旅行で迷っているのは、行き先だけではありません。
これからの生活を守りながら、長年働いた節目にどこまでお金を使ってよいのか。その線引きが見えないことが、決めにくさの正体です。
「退職金の何割まで」では決めない方がよい理由
退職記念旅行の予算を調べると、退職金の何%、夫婦二人ならいくら、といった目安を探したくなります。
しかし、同じ金額の退職金を受け取っても、住宅ローンの有無、年金を受け取り始める時期、再就職、家の修繕、車の買い替え、親御さんの介護など、今後必要なお金は家庭ごとに異なります。
退職金が多いから高額な旅行をしてよいとも、少ないから旅行を諦めるべきとも限りません。
旅行へ使えるのは、次の三つを分けた後に残るお金です。
- 生活を守るお金:毎月の生活費、医療費、予備費など
- 近い将来に使うお金:税金、社会保険料、住宅修繕、車検、家電の買い替えなど
- 目的を決めて使えるお金:旅行、趣味、家族との時間など
退職後は、健康保険や年金の加入区分、保険料の支払い方が変わる場合があります。住民税など、給与から自動的に引かれていた支出を自分で支払う場面もあります。
手続きや金額がまだ分からない場合は、その分を旅行予算へ入れずに残しておきます。
退職記念旅行の予算は、「退職金から出せる額」ではなく、「旅行後も予定どおり生活できる額」で決めます。
旅行予算は、退職後一年分の予定を見てから決めます
老後全体の支出を完璧に計算する必要はありません。
まず、退職した月から一年間に、すでに分かっている収入と支出を並べます。旅行の細かな見積もりより先に、家計が大きく動く項目を見ます。
- 退職金の手取り額と入金時期
- 年金や再就職収入が始まる時期
- 毎月の生活費
- 健康保険料、年金保険料、税金など
- 住宅ローン、家賃、管理費
- 医療や介護に備えて残す金額
- 住宅修繕、車、家電など予定している支出
- 子どもや親御さんへの支援予定
計算の形は、難しく考えなくて構いません。
現在の預貯金と退職金から、一年間の生活費、予定支出、緊急時に残したいお金を引く。その残りの中から、旅行に使っても落ち着いていられる上限を決める。
上限が10万円と決まったなら、12万円の旅行を見ながら悩み続けず、10万円以内で旅の形を変えます。
反対に、30万円使える家計でも、「今は10万円程度にしたい」と夫婦が納得するなら、それが今回の予算です。使える金額と、気持ちよく使える金額は同じではありません。
予算額より先に、旅の大きさを三段階で考えます
最初から具体的な観光地を比べると、行きたい気持ちが先に膨らみ、予算を下げにくくなります。
まずは、旅行の大きさを三段階ほどに分けます。
| 旅の形 | 向いている場合 | 考えられる過ごし方 |
|---|---|---|
| 近場・一泊 | 退職後の支出がまだ見えない、長い移動が負担 | 県内の温泉、駅近ホテル、料理を目的にした一泊 |
| 国内・二〜三泊 | 予算と体調に余裕があり、観光と休養を両立したい | 北海道、東北、九州、沖縄、歴史のある町など |
| 海外・長期旅行 | 家計、健康、旅券、保険、緊急時対応まで準備できる | 長年行きたかった国、クルーズ、複数都市の滞在 |
これは金額の高低を競う表ではありません。
近場の一泊でも、露天風呂付きの部屋と食事を選べば、節目を感じる旅になります。海外へ行っても、移動に追われ、体調を崩せば「何のために行ったのだろう」と感じるかもしれません。
記念旅行らしさは、移動距離では決まりません。
行き先は「退職後に何を取り戻したいか」で選びます
人気の観光地から探す前に、今回の旅行で何を味わいたいのかを一つ決めます。
まず身体を休めたい
通勤や仕事の緊張から離れたいなら、乗換えが少なく、宿の中で過ごせる温泉地やリゾートホテルが候補です。
観光地を何か所も回らず、早めに宿へ入り、翌朝もゆっくり出発できる行程にします。
夫婦で区切りを共有したい
仕事中心の生活で夫婦の時間が少なかったなら、二人の思い出がある町や、以前行けなかった場所を選ぶ方法があります。
ただし、旅行中ずっと一緒に行動する必要はありません。温泉や散歩を別々に楽しむ時間も入れた方が、互いに疲れにくくなります。
これから始まる生活を考えたい
退職後の暮らしを落ち着いて話したいなら、景色のよい宿や静かな町で、予定を詰めずに過ごします。
旅行中に老後資金や家族問題をすべて決めるのではなく、「退職後に一緒にしたいこと」を一つ話す程度で十分です。
長年の夢をかなえたい
仕事の都合で行けなかった海外や遠方を選ぶ場合は、体力がある時期に実行する意味があります。
一方で、「退職記念だから今しかない」と急ぐ必要はありません。季節、体調、旅行代金、手続きが整う時期まで半年ほど待つことも、夢を諦めることではないのです。
夫婦で希望が違うときは、行き先ではなく三項目を聞きます
一方は「せっかくの記念だから海外へ行きたい」。もう一方は「これから収入が減るのに、そんなに使えない」と考えている。
この違いを、旅行へ行きたい人と行きたくない人の対立にすると、話が進まなくなります。
まず、互いに次の三つを答えます。
- 今回、何にお金を使いたいか
- 何にお金を使いたくないか
- 旅行後、口座にいくら残っていれば落ち着けるか
切り出すときは、こう伝えられます。
「旅行をやめたいわけではないよ。帰ってきた後にお金のことで後悔したくないから、先に上限を一緒に決めたい」
豪華な宿を希望する相手には、すべてを否定せず、優先順位を聞きます。
「部屋、食事、行き先の中で、一番記念に残したいのはどれ?」
食事を重視するなら近場の上質な宿、行き先を重視するなら宿泊費を抑えるなど、予算内で残す部分を選べます。
子どもが旅行を贈りたい場合も、勝手に高額な予約を進めず、本人たちの体力、食事、部屋、日程を聞いてください。贈る側にとって特別な旅行でも、行く本人にとって負担が大きければ、喜びだけでは受け取れません。
旅行代金以外にかかる費用を、予約前に足します
宿と交通だけを見て予算内だと思っても、現地で支出が増えることがあります。
次の費用を含めて、旅行全体の上限を考えます。
- 自宅から駅や空港までの交通費、駐車場代
- 現地で使う電車、バス、タクシー、レンタカー
- 予約に含まれない昼食や飲み物
- 観光施設の入場料
- 土産代
- 荷物の配送費
- 旅行保険
- ペットホテルや留守宅の管理費
- 親御さんの介護や見守りを頼む費用
- 急な予定変更に備える予備費
現地で使う金額は、夫婦それぞれの自由費を含めて決めます。
「現地で自由に使うのは一人一万円まで。食事と移動は共通予算から出す」など、簡単な分け方で構いません。
土産を買う人と買わない人で感覚が違う場合も、旅行中に注意し合うより、出発前に上限を決めた方が穏やかです。
退職直後ではなく、生活が落ち着いてから行ってもよい
退職記念旅行という名前から、退職後すぐ出発しなければ意味がないように感じることがあります。
しかし、退職直後には健康保険や年金、税金、雇用保険などの手続きが重なる場合があります。長年の生活リズムが変わり、本人が思っていた以上に疲れていることもあります。
退職した翌月に旅行する必要はありません。
最初の一か月は手続きと休養に使い、支出の見通しが立った三か月後に行く。暑さや寒さを避け、平日の安い時期まで待つ。そうした選び方も、退職後だからこそできます。
平日に動けるようになることは、退職後の大きな利点です。混雑を避けられれば、移動や食事の負担も減らせます。
安さだけで、変更できない予約を選ばない
日程が自由になったからと、最安値のプランへすぐ申し込みたくなることがあります。
ところが、返金不可、日程変更不可、取消料100%などの条件が付いたプランでは、体調や家族の事情が変わっても柔軟に動けません。
予約前に見るのは、次の項目です。
- 税や手数料を含む支払総額
- 無料で取り消せる期限
- 日程や人数を変更できるか
- 交通と宿が別々の取消条件になっていないか
- 予約先と問い合わせ窓口
- 現地で追加料金が発生しないか
観光庁や国民生活センターも、旅行予約サイトでは契約相手、旅行代金、取消条件、問い合わせ先などを申込前に見るよう案内しています。
予約後は確認メールと最終画面を保存します。退職後の初めての大きな支出だからこそ、「安く取れた」より「変更が必要になっても対応できる」ことを優先して構いません。
体調に心配があるなら、観光の数より戻りやすさを見る
退職を迎える年代では、長時間歩行、持病、服薬、膝や腰の痛みなどが行程に影響する場合があります。
行き先を選ぶときは、名所の数より次を見ます。
- 乗換えが少ない
- 駅や空港から宿まで遠くない
- 宿にエレベーターがある
- 客室にトイレや浴室がある
- 観光を休んでも宿で過ごせる
- 体調が悪いときに予定を短縮できる
持病があり、遠方や海外へ行く場合は、予約前に具体的な旅程を主治医へ伝えます。
「飛行機で片道四時間、三泊の予定です。一日に歩く時間は二時間ほどです。今の体調で控えた方がよいことはありますか」
保険へ入ることと、安全に旅行できることは別です。最近症状が悪化している、薬が変わったばかり、強い息切れや痛みがある場合は、取消料より身体を優先します。
今夜は行き先を決めず、旅行に使える上限だけ出します
旅行サイトを開く前に、現在分かっている退職後一年分の支出を見ます。
そのうえで、夫婦で次の一文を完成させてください。
「旅行には二人で合計〇万円まで使う。帰宅後も〇万円は手をつけずに残す」
続けて、今回の旅行で一番残したいものを一つ選びます。
行き先、宿、食事、滞在日数のどれか一つです。
上限と優先順位が決まれば、近場の一泊にするのか、国内を二泊するのか、海外のために半年待つのかを比べられます。
長年働いた時間の価値を、旅行代金の高さで示す必要はありません。これからの生活を傷めず、帰宅後にも「行ってよかった」と言える大きさが、その家庭に合った退職記念旅行です。













