母が施設へ移った後も、実家の時計だけが同じ時間を刻んでいる
月に一度、郵便物を取りに実家へ行く。
玄関を開けると、少し湿った空気と、誰も座らなくなった食卓が目に入ります。母が戻れる可能性を考えると売りに出す気にはなれません。一方、固定資産税、庭木の手入れ、火災保険は毎年かかります。
きょうだいからは、「空けておくくらいなら貸せばいい」と言われました。
けれど、知らない人が住んだ後に母が帰りたいと言ったらどうするのか。設備が壊れたら、誰がお金を出すのか。家賃は本当に残るのか。
売れば管理から離れられます。ただ、子どもの頃からの家がなくなり、後から買い戻すことはできません。
迷っているのは、計算が苦手だからではないはずです。
実家は不動産であると同時に、親御さんの帰る場所であり、家族の記憶が残る場所でもあります。その二つを一度に決めようとするため、話が止まります。
「貸す」は、売るか決めるまでの保留ではありません
売る決心がつかないため、とりあえず貸す。
一見すると、家を残しながら収入も得られる方法に見えます。しかし、賃貸を始めると、実家は家族だけの空き家から、入居者の生活を支える賃貸住宅へ変わります。
家賃を受け取る代わりに、設備の故障、雨漏り、入居者への連絡、退去後の修繕などへ対応する立場になります。
普通建物賃貸借では、貸主側の都合だけで契約更新を拒み、すぐ返してもらえるとは限りません。
売却も簡単には取り消せませんが、賃貸も「いつでも元へ戻せる方法」ではないのです。
| 比べる点 | 売る場合 | 貸す場合 | 空き家のまま残す場合 |
|---|---|---|---|
| 得られるお金 | 売却時にまとまった手取りを得る | 入居中は家賃収入を得る | 原則として収入はない |
| 継続する負担 | 引渡し後は管理負担がなくなる | 修繕、契約、入居者対応、税務が続く | 換気、庭、建物、防犯の管理が続く |
| 家族が再利用できるか | できない | 契約期間や入居状況に左右される | 建物の状態が保たれていれば可能 |
| 主なリスク | 希望額で売れない、売却後に戻せない | 空室、滞納、故障、原状回復、退去時期 | 老朽化、近隣問題、固定費、資産価値低下 |
最初に決めるのは、「誰が、いつ住む可能性があるか」です
「いつか使うかもしれない」という言葉だけでは、実家を残す理由としては弱いものです。
誰が、何年後に、どのような条件なら住むのかまで考えます。
- 施設へ入った親御さんが自宅へ戻る可能性はあるか
- きょうだいの誰かが転居して住む予定はあるか
- 子どもや孫が住みたいと言っているだけか、時期まで決まっているか
- 介護や相続の手続きが終わるまで一時的に残したいのか
- 家ではなく、仏壇や家財を残したいために売れないのか
例えば、「母の自宅復帰が可能か、一年後に施設と主治医へ改めて聞く」という予定があるなら、その時点まで空き家として管理する判断には理由があります。
一方、「誰かがいつか住むかもしれない」と言いながら、固定資産税と管理を十年続けるのは、家族の負担を先送りしているだけかもしれません。
家を残したいのか、思い出を残したいのかも分けてください。
写真、柱の傷、庭の木、食器など、残したい物を選べれば、建物を売ることと記憶を手放すことを同じにせずに済みます。
親御さん名義なら、子どもだけで貸す・売るを決められません
親御さんが施設へ入ったからといって、実家の所有者が子どもへ変わるわけではありません。
親御さん名義の家を貸したり売ったりするには、原則として所有者本人の意思と、契約を理解して判断できる状態が関係します。
家族が固定資産税を払っている、通帳や実印を預かっているというだけで、自由に契約できるとは限りません。
まず、固定資産税の納税通知書や登記事項証明書で、次を見ます。
- 土地と建物の所有者
- 共有者の有無と持分
- 住宅ローンなどの抵当権
- 土地と建物の名義が同じか
- 相続後の名義変更が済んでいるか
親御さんの判断力が低下している場合は、家族の話し合いだけで契約を進めず、本人の状態と目的に合う財産管理の方法を確かめる必要があります。
相続した家なら、誰が取得したのかを曖昧にしたまま、きょうだいの一人が貸したり売ったりしないことです。
2024年4月1日から相続登記は義務化されており、相続により不動産を取得したことを知った日から、原則として3年以内に申請する必要があります。過去の相続も対象になるため、名義が亡くなった親御さんのままなら、判断と並行して手続きを進めます。
家賃ではなく、毎年いくら残るかを計算します
不動産会社から「月八万円で貸せます」と言われると、年間九十六万円の収入になるように感じます。
しかし、九十六万円がそのまま家族の手元へ残るわけではありません。
賃貸の年間手取りは、次の形で考えます。
年間家賃収入-空室中の減収-管理委託費-固定資産税-保険料-修繕費-入退去費用-その他の負担=税引き前の年間手取り
さらに、貸し始める前に次の費用が発生することがあります。
- 給湯器、エアコン、水回りなどの修繕や交換
- 雨漏り、シロアリ、外壁、屋根への対応
- 残置物の撤去
- 清掃、畳、壁紙、床の修繕
- 耐震性や安全性を確かめるための調査
- 入居募集や契約に関わる費用
例えば、貸し出す前に百五十万円の修繕が必要で、五年間貸す予定なら、単純に考えても毎年三十万円分を回収しなければ初期費用を取り戻せません。
途中で給湯器や屋根の修理が重なれば、家賃を受け取っていても、その年の収支が赤字になることがあります。
不動産会社へ家賃相場を聞くときは、家賃額だけでなく、
「貸し出し前に必要な修繕費、想定空室期間、管理費、年間の維持費を含め、所有者の手元に残る概算を出してください」
と頼んでください。
賃貸による収入は不動産所得となり、家賃などの収入から、賃貸に直接必要な固定資産税、保険料、減価償却費、修繕費などを差し引いて所得を計算します。
売却も、査定額ではなく最終的な手取りで比べます
売却査定が二千万円でも、二千万円すべてを施設費や生活費へ使えるとは限りません。
売却後の手取りは、次のように考えます。
売却価格-住宅ローン残高-仲介手数料-測量・登記・解体・家財処分などの費用-譲渡に関する税金=売却後の手取り
建物が古い場合は、そのまま売るのか、解体して土地として売るのかによっても費用と買い手が変わります。
一社の査定額だけで決めず、複数社へ次の条件をそろえて依頼してください。
- 現状の建物付きで売る場合
- 必要な修繕だけ行って売る場合
- 解体して土地として売る場合
- それぞれの想定売却期間
- 所有者の手元に残る金額
一番高い査定額を出した会社が、一番高く売れるとは限りません。
近隣の成約事例、売却までの期間、価格を下げる時期まで説明できるかを見ます。
実家を貸す方が合いやすいのは、収益より条件がそろう家です
次の条件がそろう場合は、賃貸を具体的に検討しやすくなります。
- 通勤、通学、生活に便利な場所で賃貸需要が見込める
- 大規模修繕をしなくても安全に貸せる
- 数年間、家族が使う予定がない
- 空室や急な修理に備える資金がある
- 管理を担う人、または管理会社が決まっている
- 親御さんや共有者が賃貸に同意している
- 家賃の税務や収支管理を続けられる
特に遠方の実家は、家族が自分で管理しようとすると、設備故障や入居者からの連絡のたびに移動が必要になります。
管理会社へ任せるなら、管理費だけでなく、夜間連絡、修繕の発注権限、滞納時の対応、退去立会いの範囲を契約前に聞いてください。
売る方が合いやすいのは、家を持ち続ける目的が見つからない場合です
次のような状態では、売却を先に検討した方が、家族の生活を守りやすいことがあります。
- 親御さんが自宅へ戻る見込みが低く、ほかに住む家族もいない
- 屋根、外壁、水回りなどに大きな修繕が必要
- 賃料に対して修繕費や管理費が重い
- 遠方で、災害や近隣問題へすぐ対応できない
- 施設費や親御さんの生活費として資金を確保したい
- 相続人が増える前に名義や家を分かりやすくしたい
- 家族の誰も管理責任を引き受けられない
売却することは、実家を大切にしていなかったという意味ではありません。
住む人がいない家を維持するために、親御さんの生活費や子ども世代の貯金を減らし続けることが、必ずしも家族の希望に合うとは限らないからです。
将来戻る可能性があるなら、普通借家と定期借家の違いを知らずに貸さないことです
親御さんが自宅へ戻る可能性や、数年後に家族が住む予定がある場合は、賃貸契約の種類が大きく関わります。
普通建物賃貸借では、契約期間が終われば貸主の希望だけで当然に退去してもらえるわけではありません。
定期建物賃貸借は、契約で定めた期間の満了により、更新されず終了する仕組みです。ただし、書面による契約や、更新がなく期間満了で終了することについての事前説明など、必要な手続きがあります。
「二年契約と書けば二年後に必ず返ってくる」と考えず、普通借家か定期借家かを契約書で確かめてください。
定期借家は貸主にとって将来を見通しやすい一方、入居者が見つかりにくい、賃料条件が変わるなどの可能性もあります。
将来の利用予定を不動産会社へ伝え、契約方式、募集条件、期間満了時の通知を含めて説明を受けます。
相続した実家は、貸す前に売却の税制を確かめます
「数年だけ貸して、後から売ればよい」と考える前に、売却時の税制へ影響しないかを見てください。
一定の要件を満たすマイホームの売却では、譲渡所得から最高三千万円を控除する特例があります。以前住んでいた家は、売却期限などの条件が設けられています。
また、相続した一定の空き家には、2027年12月31日までの譲渡について、譲渡所得から最高三千万円を控除できる特例があります。
ただし、相続した家を相続時から売却時までに貸付けへ使っていないことなど、細かな要件があります。相続人が三人以上の場合は控除上限が異なるなど、家族構成によっても扱いが変わります。
つまり、対象になり得る相続空き家を先に貸すと、後の売却で特例を使えなくなる可能性があります。
特例が使えるかは、建築時期、相続前の居住者、老人ホームへの入所状況、耐震性、売却時期などで変わります。
賃貸契約を結ぶ前に、所有者、親御さんが住まなくなった日、相続日、建築時期をそろえ、税務署や税理士へ適用条件を確かめてください。
「貸してから売る」という順番が、家賃収入以上の税負担につながる場合があります。相続した実家は、賃貸募集を始める前に売却特例の対象になり得るかを確認します。
きょうだいとは、売る・貸すの好みではなく四つの数字を共有します
長男は「実家は残したい」、長女は「管理できないから売りたい」。
この状態で思い出や親孝行について話すと、どちらが実家を大切にしているかという争いになりやすくなります。
最初の話し合いでは、次の四つだけを共有してください。
- 誰がいつ住む具体的な予定があるか
- 貸す前に必要な修繕額
- 賃貸した場合の年間手取り
- 売却した場合の手取り見込み
話し始める言葉は、次の程度で構いません。
「今日は売るか貸すかを決めるのではなく、誰かが住む予定と、二つの手取り額だけ確かめたい。思い出の話は、その数字を見てから別にしたい」
「残したい」と言う人には、管理費用と実務を誰が担うのかまで聞きます。
「売りたい」と言う人には、親御さんの帰宅可能性や、家財をどう残すかまで考えてもらいます。
希望だけでなく、費用と役割を引き受けられるかまで話して初めて、家族の選択になります。
決めきれない期間にも、家は傷み続けます
家族の結論が出ない間、実家を空き家のまま置くことはできます。
ただし、何もしない保留にはしないでください。
人が住まない家は、換気不足、雨漏り、庭木、害虫、不法侵入などの問題が起きやすくなります。管理状態が悪化し、市区町村から管理不全空家や特定空家として勧告を受けると、土地の固定資産税に関する住宅用地特例を受けられなくなる場合もあります。
三か月だけ判断を保留するなら、その間に行うことを決めます。
- 月一回の換気、通水、郵便物確認
- 屋根、外壁、庭木、室内の点検
- 火災保険が空き家の状態に対応しているかの確認
- 売却と賃貸、両方の手取り見積もりの取得
- 家財を残す物、処分する物、持ち出す物へ分ける
- 三か月後に結論を話す日を決める
屋根材が落ちそう、ガス臭がする、漏電や火災の危険があるなど、周囲へ被害が及ぶ状態は、家族会議を待たず、電力・ガス会社、消防、自治体などへ連絡します。
今日は同じ条件で「二つの手取り」を依頼します
売却査定と賃料査定を別々の会社へ頼むと、見せ方が違い、比較しにくくなります。
実家の名義と将来の利用予定を確かめたら、不動産会社へ次の一文を送ってください。
「実家を売るか貸すか検討中です。売却価格や月額家賃だけでなく、売却後に残る手取り額と、初期修繕・空室・管理費・税金を考慮した賃貸の年間手取りを、同じ物件条件で出してください」
その場で媒介契約や賃貸管理契約を結ぶ必要はありません。
二つの手取りが出たら、家族が将来使う日付と、管理を担う人を横に置いて比べます。
家を残したい気持ちだけでも、査定額の高さだけでも決めない。
実家を誰の生活のために、いつまで、いくらかけて持つのか。そこまで言葉にできれば、貸すか売るかは、少しずつ家族が引き受けられる判断へ変わります。


















