退職してから、通帳の残高が毎月少しずつ減っている。
再就職先は決まらず、家賃や住宅ローン、保険料、車の維持費は変わりません。65歳まで待てば本来の年金額を受け取れると分かっていても、「そこまで貯金がもつのか」が見えなくなっています。
日本年金機構の請求書を開いては閉じ、まだ提出していない。
ご家族からは「繰り上げると損だから待った方がいい」と言われる一方、今の生活費を出してくれるわけではありません。
このようなとき、将来受け取る総額だけで正解を決めようとすると、目の前の暮らしが抜け落ちます。
先に見るのは、長生きした場合の損得ではありません。65歳までに実際に足りなくなる金額と、繰上げ後も毎月続く不足額です。
受給の損得より先に「65歳までの不足額」を出します
年金を早く受け取るか迷っている方の中には、「貯金が減るのが怖い」という方と、「本当に65歳まで生活できない」という方がいます。
同じように見えますが、判断は異なります。
まず、次の式で一か月の不足額を出します。
一か月の不足額 = 毎月の生活費 - 年金以外の手取り収入
毎月の生活費には、食費や光熱費だけでなく、次の支出も含めます。
- 家賃、住宅ローン、管理費
- 電気、ガス、水道、通信費
- 食費、日用品、医療費
- 車、交通費
- 保険料、税金
- 借入や分割払いの返済
固定資産税、車検、年払いの保険料などは、年間金額を12で割って加えます。
次に、65歳までの不足額を計算します。
65歳までの不足額 = 一か月の不足額 × 65歳までの月数
たとえば現在63歳で、生活費が月18万円、仕事やほかの収入が月8万円なら、一か月の不足は10万円です。
65歳まで24か月あるとすれば、日常生活だけで約240万円不足します。ここへ車検、家電の買い替え、住宅修繕などが加わります。
この金額を、現在の貯金から出せるかを見ます。
ただし、預金残高をすべて生活費として計算しないでください。急な入院、家の修繕、葬儀、車の故障などに残したい金額を先に分けます。
「貯金はいくらあるか」ではなく、「65歳までの生活費に使ってよい貯金はいくらか」を見ます。ここが分からないまま繰上げ受給の損得を比べても、暮らしに合う答えは出ません。
繰上げ受給で減った年金額は、65歳になっても戻りません
老齢基礎年金と老齢厚生年金は原則65歳から受け取りますが、希望すれば60歳から65歳になるまでの間に繰り上げて請求できます。
早く受け取れる代わりに、請求した月に応じて年金額が減ります。
| 請求時の年齢 | 1962年4月2日以降生まれ | 1962年4月1日以前生まれ |
|---|---|---|
| 60歳 | 24.0%減額 | 30.0%減額 |
| 61歳 | 19.2%減額 | 24.0%減額 |
| 62歳 | 14.4%減額 | 18.0%減額 |
| 63歳 | 9.6%減額 | 12.0%減額 |
| 64歳 | 4.8%減額 | 6.0%減額 |
正確な減額率は月単位で決まり、1962年4月2日以降生まれの方は一か月につき0.4%、1962年4月1日以前生まれの方は一か月につき0.5%です。
たとえば、65歳からの年金見込額が月12万円の方が、1962年4月2日以降生まれで63歳ちょうどに請求するとします。
減額率を9.6%とした単純計算では、受給額は月約10万8,480円です。65歳になった後も12万円には戻らず、月約1万1,520円の差が続きます。
物価や制度改定などによって実際の年金額は変動しますが、繰上げによる減額率そのものは生涯変わりません。
また、原則として老齢基礎年金と老齢厚生年金は同時に繰上げ請求します。「基礎年金だけ先にもらい、厚生年金は65歳から」と自由に分けられるとは限りません。
比較するのは「今もらえる額」と「65歳からの額」だけではありません
繰上げを決めるときは、少なくとも三つの案を同じ条件で比べます。
| 選択肢 | 65歳まで | 65歳以降 | 確かめたいこと |
|---|---|---|---|
| 今すぐ繰り上げる | 早く年金収入が始まる | 減額された年金が続く | 年金を受け取っても毎月いくら不足するか |
| 65歳まで待つ | 貯金や仕事の収入でつなぐ | 本来の年金額を受け取る | 生活に使える貯金で不足額を賄えるか |
| 数か月だけ待つ | 短時間勤務、支出見直し、貯金を組み合わせる | 今すぐ請求するより減額率が小さくなる | 何月までなら無理なく待てるか |
繰上げ受給は、「今すぐ請求する」か「65歳まで一切受け取らない」かの二択ではありません。
一か月待つごとに減額率は小さくなります。65歳まで待てなくても、半年や一年だけ仕事と貯金でつなげないかを考える余地があります。
一方、生活費をカードローンやリボ払いで補いながら65歳まで待つのであれば、その利息と返済負担も含めて比べなければなりません。
年金額を守るために高い利息の借入を増やし、生活が崩れては本末転倒です。
65歳になった後の家計を、繰上げ後の月額で作ります
繰上げ受給をすると、65歳までの不足は小さくなります。
ただし、65歳以降も支出が年金額を上回るなら、貯金の取り崩しは続きます。
次の式で、65歳以降の毎月の不足額を見ます。
65歳以降の不足額 = 毎月の生活費 - 繰上げ後の手取り収入
夫婦世帯であれば、ご本人の年金だけでなく、配偶者の給与、年金、企業年金なども加えます。
たとえば、繰上げ後の年金が月10万8,000円、生活費が月17万円なら、年金以外の収入がなくなった後は約6万2,000円不足します。
年間では約74万円です。
この不足を今後も貯金から出すのか、住居費、車、保険、働き方などを変えるのか。そこまで見て初めて、繰上げ受給後の生活が成り立つかを判断できます。
年金の見込額は額面で示されるため、実際に使える金額と同じとは限りません。所得や自治体、年齢などにより、税金や社会保険料の負担が生じる場合があります。
家計表へ入れるときは、年金見込額をそのまま生活費に充てるのではなく、少し余裕を持たせてください。
「何歳まで生きれば得か」だけで決めると、今の暮らしを見失います
繰上げ受給について調べると、何歳まで生きれば通常受給の総額が上回るかという計算が出てきます。
受取総額の比較は判断材料の一つです。
ただし、ご本人にとって本当に必要なのは、「平均的にどちらが得か」という答えだけではありません。
- 65歳までの生活費を借金せずに出せるか
- 住まいや医療を維持できるか
- 今後も働ける見込みがあるか
- 配偶者や家族が援助できるか
- 長生きした場合に、減額後の年金で暮らせるか
十分な貯金があり、65歳以降の年金額を確保したい方にとっては、待つ意味があります。
反対に、収入がなく、貯金を急速に取り崩し、家賃や医療費まで払えなくなるのであれば、繰上げ受給が現実的な選択になる場合もあります。
「早く受け取る人は損」「待てない人は計画性がない」と単純に決められる問題ではありません。
治療中の病気がある方は、請求書を出す前に止まってください
繰上げ受給には、月額の減少以外にも注意点があります。
特に、病気やけがで治療を続けている方は、年金事務所で影響を確かめてから請求してください。
繰上げ請求をした後は、請求後に症状が重くなったことを理由とする「事後重症」などによる障害基礎年金・障害厚生年金を請求できなくなる場合があります。
現在は働けていても、治療中の病気が今後の生活へ影響する可能性があるなら、老齢年金の繰上げだけで判断しない方が安全です。
電話では、次のように伝えます。
「老齢年金の繰上げを考えていますが、現在〇〇で治療中です。将来の障害年金の請求にどのような影響があるか、請求前に確認したいです」
医療機関へ年金の可否を判断してもらうのではなく、初診日や加入記録などを含めて年金事務所へ確認します。
未納期間・失業給付・働き方がある方も影響を確かめます
次の事情がある方は、生活費の計算だけで請求を決めないでください。
国民年金の未納や免除期間がある
繰上げ請求をすると、その後は国民年金への任意加入や、保険料の追納ができなくなります。
未納・免除期間を納めることで将来の年金額を増やせる可能性がある方は、繰上げ後の金額と、納付して65歳まで待つ場合を比べます。
失業給付を受ける予定がある
65歳になるまでの老齢厚生年金と雇用保険の基本手当を同時期に受ける場合、老齢厚生年金の全部または一部が支給停止となることがあります。
「年金と失業給付の両方がそのまま入る」と考えて家計を作らず、ハローワークと年金事務所で扱いを確かめてください。
60歳以降も厚生年金に入りながら働く
給与や賞与の額によっては、在職老齢年金の仕組みにより老齢厚生年金の一部または全部が支給停止となる場合があります。
働く予定の月収と、繰上げ後の年金額を伝え、実際に受け取れる見込額を試算してもらいます。
遺族年金や寡婦年金が関係する
65歳になるまでの間は、繰上げた老齢年金と遺族厚生年金などを同時に受け取れず、どちらかを選ぶ場合があります。
寡婦年金についても、繰上げ請求後は受けられなくなるため、該当する可能性がある方は事前確認が欠かせません。
年金は請求した日に生活費として振り込まれるわけではありません
繰上げ請求をすると、請求した日の翌月分から年金の対象になります。
ただし、窓口へ請求書を出した当日に現金を受け取れる制度ではありません。
今週の家賃、今日の食費、数日後の電気料金に間に合わせる目的であれば、年金の請求だけでは対応できない可能性があります。
次の状態にある場合は、年金の判断とは別に、支払期限への対応を優先してください。
- 家賃や住宅ローンを滞納している
- 電気、ガス、水道の停止予告が届いている
- 食費や必要な薬を買えない
- 生活費を借入やリボ払いで補っている
- 退去、差押え、裁判所などから期限付きの通知が届いている
請求元へは、次のように伝えます。
「現在収入がなく、年金の繰上げも検討していますが、期限までの全額支払いが難しい状況です。利用できる手続きがあるか教えてください」
家賃、仕事、借金、生活費など複数の問題が重なっている場合は、お住まいの地域の自立相談支援機関へ、家計全体を伝える方法があります。
ご家族は「損だからやめて」ではなく、二つの不足額を一緒に見ます
親御さんが年金を繰り上げたいと話したとき、子ども世代は将来を心配して止めたくなります。
一方、親御さんは「今の生活費を払うのは自分なのに、将来の損ばかり言われる」と感じるかもしれません。
話し合いでは、受給への賛成・反対を先に決めず、二つの数字を並べます。
- 65歳までに足りない金額
- 繰上げによって65歳以降に毎月減る金額
家族からは、次のように伝えられます。
「繰上げを止めたいわけではないよ。65歳までに必要なお金と、繰り上げた後に毎月いくらで暮らすことになるかを一緒に比べたい」
ご家族が援助できる場合も、「必要なら出す」という曖昧な約束ではなく、いつまで、月いくらまで支えられるかを決めます。
家族の援助を前提に65歳まで待った後、途中で支援が続かなくなると、親子双方が苦しくなります。
年金事務所では「請求」ではなく「試算」を頼めます
年金事務所へ行くことは、繰上げ請求を決めることではありません。
請求前に、受給開始年齢ごとの見込額や、働き方、ほかの年金との関係を確かめられます。
持参できる範囲で、次のものを用意します。
- 基礎年金番号が分かる書類
- ねんきん定期便
- 現在の年齢と退職日
- 今後の働き方と収入見込み
- 失業給付などを受ける予定
- 治療中の病気や障害年金について聞きたいこと
- 何歳から受け取るか比較したい年齢
窓口では、次のように伝えてください。
「生活費が足りず繰上げ受給を考えています。今日は請求せず、今月、半年後、65歳から受け取る場合の見込額と、注意点を比較したいです」
日本年金機構の「ねんきんネット」でも、受給開始年齢や今後の働き方を変えた試算ができます。
ただし、治療中の病気、失業給付、遺族年金などが関係する場合は、画面の試算だけで決めず、年金事務所へ個別の影響を確かめた方が安全です。
今夜は「三つの数字」を見つけるところまでで構いません
繰上げ請求書へ記入する前に、次の三つを見つけてください。
- 65歳から受け取る年金の月額見込み
- 現在の一か月の生活費
- 65歳までの残り月数
その横に、仕事、貯金、配偶者の収入など、年金以外から毎月出せる金額を書きます。
今夜、受給するかどうかまで決める必要はありません。
まず「65歳までにいくら足りないか」を出し、その数字を持って、受給開始年齢ごとの試算を受ける。取り消せない請求だからこそ、最初の一歩は提出ではなく比較で構いません。


















