スーパーで肉を手に取り、値段を見て棚へ戻す。
買えないわけではありません。通帳には、退職金を含めた貯金が残っています。
それでも、給与が入らなくなった口座からお金が出ていくたび、「もう元には戻らない」という感覚が強くなる。外食を断り、古くなった靴も買い替えず、歯の治療まで先延ばしにしてしまう。
家族からは「そのために貯めたお金でしょう」と言われます。
理屈では分かっているのです。けれど、何歳まで生きるか、病気や介護にいくら必要になるかが分からない以上、今日使った千円が将来の自分を困らせるように感じます。
怖いのは、残高が減ることだけではありません。
どこまで減っても暮らせるのか、その線が見えないことが、毎日の支出を難しくしています。
退職後に貯金が減るのは、すぐに危険という意味ではありません
現役時代は、給与から生活費を払い、残った分を貯金します。
退職後は、年金やその他の収入だけでは足りない生活費を、これまでの貯金で補うことがあります。お金の流れが「貯める時期」から「使う時期」へ変わるため、残高が減ること自体は不自然ではありません。
見るべきなのは、減っているかどうかではなく、次の三点です。
- 予定していた範囲で減っているか
- 今のペースなら、何年程度持つ見込みか
- 食事、医療、住まいなど必要な生活まで削っていないか
たとえば、年金だけでは毎月5万円足りず、その不足を補うために貯金から5万円を移しているなら、計画どおりの取り崩しかもしれません。
一方、毎月いくら使っているか分からず、カード請求が増え、年に一度の税金や修繕費も貯金から無計画に出しているなら、減り方を一度見直す必要があります。
残高が減らない生活を目指すのではなく、「この使い方なら次の見直し時期まで暮らせる」と分かる状態を作ります。
通帳残高ではなく、一年間にいくら減ったかを見ます
退職後の家計は、一か月だけでは判断しにくいものです。
固定資産税、自動車税、家電の買い替え、冠婚葬祭、旅行、医療費など、毎月ではない支払いがあるからです。
まず、過去一年間の数字から次の式を作ります。
一年間の支出 - 一年間の手取り収入 = 一年間の取り崩し額
収入には、実際に口座へ入った年金、給与、企業年金、家賃収入などを入れます。
支出は、生活費だけでなく、税金、保険料、医療、住宅修繕、車、家族への援助なども含めます。
たとえば、一年間の手取り収入が240万円、支出が300万円なら、年間の取り崩し額は60万円です。
生活に使える金融資産が1,200万円なら、単純計算では次のようになります。
1,200万円 ÷ 60万円 = 約20年
これは将来を保証する数字ではありません。物価、病気、介護、住まいの修繕などで支出は変わります。
それでも、「何となく減っている」という状態から、「今の支出が続けば、おおよそ何年分か」という判断材料へ変えられます。
退職してまだ一年たっていない場合は、直近三か月の通常支出を月額へ直し、今後一年以内の大きな支払いを加えます。
| 計算に入れるもの | 見る資料 |
|---|---|
| 年金の手取り額 | 年金振込通知書、実際の入金額 |
| 日常生活費 | 通帳、カード明細、現金の引き出し額 |
| 税金・社会保険料 | 納付書、年金からの天引き額 |
| 医療・介護費 | 領収書、医療費通知、介護サービスの明細 |
| 年払い・臨時費用 | 前年の通帳、税金・保険・車検の通知 |
| 今後の大きな予定 | 住宅修繕、車、家電、家族への援助予定 |
年金は通知書の年額ではなく、実際の振込額を使います
老後の家計を計算するとき、年金額改定通知書などに書かれた年額を、そのまま生活費へ使える金額として入れないようにします。
年金からは、条件に応じて介護保険料、国民健康保険料・後期高齢者医療保険料、所得税、住民税などが差し引かれる場合があります。
年金振込通知書には、控除前の年金支払額だけでなく、各種控除額と控除後の振込額が記載されています。
家計表には、原則として控除後振込額を使います。
年金は通常、二か月分ずつ振り込まれます。家計上の月額を出す場合は、実際の一回の振込額を二で割ります。
まだ年金を受け取り始めていない方は、「ねんきんネット」で、働き方や受給開始年齢などの条件を変えた見込額を試算できます。
ただし、見込額は将来の額であり、そのまま手取り額を保証するものではありません。税金や保険料も含めた生活設計を考える場合は、金融庁のライフプランシミュレーターなどを補助的に使えます。
貯金を三つに分けると、生活費を使うたびに悩まずに済みます
貯金を一つの口座で管理していると、食品を買っただけでも「老後資金全体が減った」と感じます。
そこで、お金を目的別に三つへ分けます。
毎月の生活に使うお金
食費、水道光熱費、日用品、医療費、交際費など、普段の暮らしに使う分です。
年金の入る口座とは別に生活口座を用意し、一か月分または二か月分を移しておく方法があります。
数年以内に使う予定のお金
車検、固定資産税、住宅修繕、家電の買い替え、旅行、冠婚葬祭などです。
「何かあったときのため」とまとめず、用途と予定時期を付けます。
すぐには使わない予備のお金
大きな病気、介護、住み替え、収入減など、時期や金額を予測しにくい支出へ備える分です。
三つの金額に、全国共通の正解はありません。
持ち家か賃貸か、車を使うか、家族を援助しているか、持病があるかによって違います。
大切なのは、すべてを「使ってはいけない老後資金」にしないことです。
生活口座へ移した分は、決めた目的の範囲で使ってよいお金とします。買い物のたびに資産総額を見るのではなく、生活口座の中で今月を調整します。
楽しみに使うお金も、残ったら使うのではなく先に枠を作ります
食費や医療費は必要経費として納得できても、旅行、外食、趣味、孫への贈り物には罪悪感が出ることがあります。
「なくても生きていける」と考えれば、楽しみの支出はすべて削れてしまうからです。
しかし、退職後の年月は、ただ残高を守るための待ち時間ではありません。
使った後に不安になる方は、毎回判断するのではなく、年間の枠を先に決めます。
たとえば、年間12万円なら月平均1万円です。ただし、毎月使い切る必要はありません。旅行の月にまとめて使うこともできます。
決め方は次の順番です。
- 年間の手取り収入を出す
- 生活費と年払い費用を引く
- 予定している貯金取り崩し額を加える
- その範囲で年間の楽しみ費を決める
使う日には、「本当に必要か」を毎回問い直すのではなく、年間枠の残りを見ます。
「旅行に行っても大丈夫か」ではなく、「今年の楽しみ費の範囲に収まるか」へ質問を変えるのです。
食事・冷暖房・受診を削っているなら、節約しすぎです
貯金を守ろうとして、健康や住まいの安全まで削ると、後から大きな支出につながることがあります。
次のような状態は、通常の節約ではありません。
- 食事の回数や量を減らしている
- 暑さや寒さを我慢し、冷暖房を使えない
- 歯科や持病の受診を先延ばしにしている
- 眼鏡、補聴器、靴など生活に必要な物を替えられない
- 壊れた給湯器や手すりを放置している
- 人と会う費用が惜しく、ほとんど外出しなくなった
この場合、家計表の数字が黒字でも、生活は安全とはいえません。
食事、医療、冷暖房、住まいの安全に使うお金は、楽しみ費より先に確保します。
医療費が怖い場合は、必要な治療をやめる前に、加入している医療保険の高額療養費制度を確認してください。医療機関や薬局で支払う保険診療の自己負担には、年齢や所得に応じた上限制度があります。
介護サービスの自己負担にも、高額介護サービス費などの仕組みがあります。対象となる費用や上限は所得、世帯、サービス内容などで異なるため、加入先や市区町村へ具体的に尋ねます。
「今後の医療・介護費が怖く、必要な生活費まで使えません。自分の所得区分で使える上限制度と、対象外になる費用を教えてください」
大きな買い物は、買うか我慢するかではなく三段階で決めます
車、住宅修繕、家電、旅行など大きな支出は、日常生活費とは別に判断します。
買う前に、次の三段階へ分けてください。
- 今しないと危険・生活できない:雨漏り、給湯器、通院に必要な車、安全設備
- 一年以内には必要:故障が近い家電、車検、外壁や設備の修繕
- 時期を選べる:旅行、趣味用品、まだ使える物の買い替え
危険や生活維持に関わるものは、貯金が減るからと先延ばしにしない方がよい場合があります。
時期を選べるものは、年間予算と資金が持つ年数を見て決めます。
購入後の残高だけでなく、維持費も含めてください。車なら保険、税金、車検、駐車場、燃料費が続きます。
家族へ高額な援助を頼まれた場合は、その場で引き出さず、次のように返します。
「助けたい気持ちはありますが、退職後の生活資金から出すため、金額と返済の有無を確認してから返事をします」
減り方が予定より速いときは、食費より固定費から見ます
計算してみると、想定より早く貯金が減っていることもあります。
その場合、毎日の食事を数十円ずつ削る前に、金額の大きい支出を見ます。
- ほとんど使っていない車
- 保障内容が重複している保険
- 利用していない通信契約や有料サービス
- 家族への定期的な援助
- 住宅ローンや家賃、管理費
- 税金や修繕費の重い空き家・土地
ただし、保険や住まいは、解約・売却すると元へ戻しにくいものです。
「今月苦しいから」と急いで処分せず、解約後に失う保障、売却費用、次の住居費まで比べます。
支出を減らしても不足が大きい場合は、週に数日の仕事、住まいの見直し、公的給付の対象なども検討します。
所得などの要件を満たす年金受給者には、年金生活者支援給付金が支給される場合があります。自動的に全員へ支給される制度ではなく、請求が必要となることがあるため、日本年金機構から届いた書類を放置しないでください。
貯金を増やし直そうとして、急な投資を始めないでください
貯金が減る恐怖が強いと、「運用して減らないようにしなければ」と考えることがあります。
投資には値下がりの可能性があり、近いうちに生活費として使うお金を増やせる保証はありません。
特に、次のような勧誘には立ち止まってください。
- 元本保証で高い利益が出ると言われる
- 著名人や専門家を名乗るSNSへ誘導される
- 今日中に振り込めば特別枠へ入れると言われる
- 投資先の仕組みや出金方法を説明してもらえない
- 個人名義の口座へ振り込むよう指定される
生活費として数年以内に使う予定のお金と、値動きを受け入れられるお金は分けます。
すでに投資商品を持っている場合も、相場が下がった日に恐怖だけで全部売るのではなく、当面の生活費が現金で確保できているかを先に見ます。
金融商品の購入や売却を勧められたときは、その担当者以外の中立的な窓口へ説明を持ち込む方法があります。
家族には残高より「毎年いくら使う予定か」を共有します
夫婦の一方は「使わなければ生活がつまらない」と考え、もう一方は「先が分からないから使えない」と考えることがあります。
どちらかを浪費家、心配性と決めつけると、お金の話ができなくなります。
話すときは、総貯金額だけでなく、年間の計画を見せます。
「去年は年金などの手取りが240万円、支出が288万円で、48万円を貯金から使いました。今年も同じなら月4万円の取り崩しです。旅行費はその中で年間10万円までにしたいです」
数字を見ても意見が違う場合は、すべてを決めようとせず、次の半年だけの予算にします。
「半年間は生活口座へ毎月18万円を移し、三か月後に残り方を見直したいです」
期間を区切れば、使いすぎる怖さと、何も使えない苦しさの両方を減らせます。
自分で計算しても怖さが消えないときは、商品を売らない窓口を使います
資金が何年持つかは、寿命、物価、医療、住まい、資産の種類によって変わります。
一人で計算すると、最悪の場合ばかりを重ねてしまうこともあります。
金融経済教育推進機構のJ-FLECでは、家計管理や生活設計について、個別相談の無料体験や電話相談を提供しています。個別の金融商品の提案や推奨は行わない窓口です。
相談時には、次の資料があると話しやすくなります。
- 年金振込通知書
- 預貯金や投資資産のおおよその残高
- 直近一年分の通帳・カード明細
- 住宅、車、保険の支払い
- 今後予定している大きな支出
最初の一言は、次の程度で構いません。
「退職後、貯金が減るのが怖くて必要な支出もできません。今の取り崩し額が大きすぎるのか、毎月使える金額を一緒に見てほしいです」
一方、家賃、食事、電気、薬などを払えず、すでに生活の維持が難しい場合は、資産運用の話より先に、自治体の自立相談支援機関へ状況を伝えてください。
生活困窮者自立支援制度では、状況に応じて家計改善、仕事、住まいなどの支援につながる場合があります。窓口へ話しただけで、財産処分や特定の手続きが自動的に決まるわけではありません。
次の年金振込日までに使う生活費だけ、別口座へ移します
今夜、何歳まで資金が持つかを完全に決める必要はありません。
まず、次の年金振込日までに必要な食費、水道光熱費、日用品、医療費を合計します。
その金額を生活用の口座へ移し、この期間の暮らしに使ってよいお金と決めてください。
旅行や大きな買い物は、まだ含めなくて構いません。
次の振込日に、生活口座にいくら残ったかを見ます。使い切っていれば予算が少なすぎたのか、支出が多かったのかを分けます。残りすぎて食事や受診を我慢していたなら、次回は少し増やします。
老後資金は、ただ長く残すための数字ではありません。
暮らしを保ち、必要なときに身体を守り、時には楽しむためのお金です。総残高を毎日見張るのではなく、次の二か月を安心して過ごせる金額から使い方を決めていけます。


















