「今ならまだ署名できる」と家族だけで急ぐのは危険です
親御さんが同じ請求書を二度払った。銀行の暗証番号を何度も間違えた。ご実家を売って介護費用に充てる話をしても、翌日には「そんな話は聞いていない」と言う。
調べるうちに家族信託という言葉を知り、「手遅れになる前に契約しなければ」と焦っている方もいるでしょう。
一方で、親御さんは普段どおり会話ができる日もあります。家族の名前も分かる。自分の住所も言える。それなら契約書に署名してもらえば間に合うのではないか。そう考えるのも無理はありません。
ただし、家族信託は、書類へ名前を書けば成立する単純な手続きではありません。
本人の財産を誰に託し、何のために管理してもらい、どこまで処分を認めるのかを決める契約です。契約した結果、ご自宅や預金などの管理方法が大きく変わることもあります。
本人が内容を理解できない状態で契約を急げば、後から契約の有効性をめぐって争いになるおそれがあります。兄弟姉妹から「本人は本当に納得していたのか」と疑われれば、介護と財産管理に加えて家族間の対立まで抱えることになります。
急ぐべきなのは、署名ではありません。
本人に契約する力が残っているか、家族信託で何を解決したいのか、いつまでに何の手続きが必要なのかを見極めることです。
家族信託に間に合うかは、認知症の診断名だけでは決まりません
「認知症と診断されたら、家族信託は一切できない」「軽度認知障害なら必ずできる」という単純な線引きはできません。
法律上の契約で問題になるのは、契約をする時点で、本人がその内容と結果を理解できるかどうかです。
たとえば、日常会話ができても、次の内容が分からなければ、複雑な家族信託契約を結ぶことは難しくなります。
- どの財産を信託するのか
- 誰が財産を管理するのか
- 受託者に何を任せ、何を任せないのか
- 自宅を売却できる契約なのか
- 財産から利益を受けるのは誰か
- 契約すると、現在の管理方法がどう変わるのか
- 契約しない場合に、どのような問題が残るのか
逆に、物忘れがある、介護認定を受けた、認知症と診断されたという事情だけで、直ちにすべての契約ができなくなるとは限りません。
本人の状態は日によって変わることもあります。ただし、調子のよい時間帯を狙って形式的に署名してもらえばよい、という意味ではありません。本人が自分の言葉で希望を話し、契約の内容を理解していることが欠かせません。
| 本人の状態 | 考えられる進め方 | 避けたいこと |
|---|---|---|
| 財産、管理を任せる相手、契約の目的を自分の言葉で説明できる | 家族信託が適しているか、ほかの制度も含めて早めに検討する | 家族が先に契約内容を決め、署名だけ求める |
| 説明時には理解するが、話が変わる、内容をすぐ忘れることがある | 本人との面談を行い、契約の可否を慎重に見極めてもらう | 家族だけで「まだ大丈夫」と判定する |
| 財産を任せる意味や相手を理解できず、意思も一貫しない | 新たな家族信託にこだわらず、法定後見など別の方法を検討する | 説明を省き、手を添えて署名させる |
家族が本人へ質問し、正解数で意思能力を判定するものではありません。契約内容や財産の規模によって求められる理解も異なるため、家族信託を扱う法律専門職に本人と直接面談してもらうことが重要です。
家族信託で何を解決したいのか、一つずつ分けます
「認知症になったら口座が凍結されるらしい」「家族信託をしておけば安心らしい」と聞き、制度そのものが目的になっていることがあります。
しかし、家族信託はすべての困りごとを解決する仕組みではありません。
家族信託で管理できるのは、契約で信託財産に入れた財産です。親御さんが持っている全財産を、子どもが自動的に使えるようになる制度ではありません。
| 困っていること | 家族信託との関係 |
|---|---|
| 将来、ご実家を売って介護費用に充てたい | 不動産を信託財産とし、売却権限を適切に定める方法が考えられます |
| 預金から介護費や生活費を継続して払いたい | 信託する金銭や金融機関の取扱いを含めた設計が必要です |
| 賃貸不動産の家賃管理や修繕を子どもに任せたい | 信託の対象や管理権限を定めることで対応できる場合があります |
| 介護施設との契約、入院手続き、生活全般を任せたい | 家族信託は財産管理の仕組みであり、生活・療養に関する支援をすべて任せる制度ではありません |
| 悪質商法で結んだ契約を家族が取り消したい | 家族信託だけで、本人が結んだ契約を当然に取り消せるわけではありません |
| 相続争いをすべて防ぎたい | 信託していない財産や遺留分など、別に検討すべき問題が残ります |
家族信託が利用できる状態でも、悩みに合っていなければ費用と手間だけが増える可能性があります。
反対に、「必要なのは自宅を売る権限だけ」「日常の支払いだけ手伝ってほしい」と分かれば、家族信託以外の方法で足りることもあります。
まだ間に合う可能性があるなら、契約書より先に集めたい情報
専門家へ連絡する前に、完璧な財産目録を作る必要はありません。
ただし、家族信託の可否だけを尋ねても、本人の状態や解決したい問題が分からなければ具体的な検討には進めません。
まず、次の情報を分かる範囲で一か所に集めます。
本人について
- 現在の診断名、通院先、服薬内容
- 直近に起きた金銭管理や契約上の変化
- 本人が財産管理について話していた希望
- 同じ説明をしたとき、どの程度理解できるか
- 本人と落ち着いて話せる時間帯
財産について
- 本人名義の預貯金がある金融機関
- ご自宅、賃貸物件、土地などの不動産
- 住宅ローンや事業上の借入れ
- 株式、投資信託、保険などの有無
- すでに作成した遺言書、委任状、任意後見契約など
近いうちに必要な手続き
- 介護施設の入居一時金や月額費用の支払い
- ご自宅の売却や賃貸
- アパートの修繕、更新、家賃管理
- 定期預金の解約
- 相続や共有不動産の手続き
専門家へは、次のように伝えれば構いません。
「母の物忘れが進み、家族信託を新しく契約できる状態か分かりません。家族信託を勧めてほしいのではなく、まず契約が可能か、ほかに合う制度があるかを本人との面談も含めて判断してほしいです」
この段階で契約を決める必要はありません。初回の面談では、家族信託が本当に必要か、本人が契約内容を理解できるか、費用や手続きがどこまで必要かを聞きます。
「もう難しい」と分かった後にも、できることは残っています
本人の意思能力が不足しており、新しい家族信託契約が難しい場合でも、財産管理を諦めるしかないわけではありません。
ただし、家族信託と同じことができる制度を一つ選ぶのではなく、困っている内容ごとに手段を変える必要があります。
| 現在の問題 | 考えられる手段 | 先に知っておきたいこと |
|---|---|---|
| 不動産の売却や預金管理など、法律上の代理人が必要 | 法定後見制度の後見・保佐・補助 | 家庭裁判所が本人の状態に応じて選任し、家族の希望する人が必ず選ばれるとは限りません |
| 以前に任意後見契約を結んでいる | 任意後見監督人の選任申立てを検討 | 契約書があるだけでは任意後見が開始していない場合があります |
| 入院費や介護施設費を本人の預金から急いで払いたい | 取引銀行へ個別に事情を伝える | 本人の意思確認ができない場合は成年後見が原則ですが、銀行が事情や使途を確認して個別対応する場合があります |
| 日常的な生活費の支払いや福祉サービスの利用を手伝ってほしい | 日常生活自立支援事業 | 本人が支援契約の内容を理解できることなど、利用条件があります |
| 財産だけでなく、介護や生活の支援先も分からない | 地域包括支援センター | 契約の有効性を判断する機関ではありませんが、地域の介護・福祉・権利擁護支援へつなぐ入口になります |
すでに作成した委任状や銀行の代理人届がある場合も、それだけでどの取引でもできるとは限りません。書類の内容、作成時の本人の状態、金融機関の規定、必要な取引によって扱いが変わります。
まずは原本を探し、「いつ作ったか」「誰に何を任せているか」「どの金融機関や手続きで使えるか」を発行元へ確かめてください。
成年後見は「家族信託の代用品」として急いで申し込まない
法定後見制度は、判断能力が不十分な本人を法律面で支える制度です。本人の状態によって、補助、保佐、後見に分かれます。
成年後見人等は、本人の財産を本人のために管理し、必要な契約を代理するなどの役割を担います。
ただし、「自宅を一度売ったら終わり」「預金を一回解約できればよい」という手続きではない点に注意が必要です。
- 申立て後は、家庭裁判所の許可なく取り下げられません
- 家族が候補者になっても、その人が必ず選ばれるわけではありません
- 専門職が選ばれ、本人の財産から報酬が支払われる場合があります
- 目的の手続きが終わっても、本人の判断能力が回復するか、本人が亡くなるまで続くのが原則です
- 本人の財産は、家族の都合ではなく本人の利益のために使います
これらは制度の欠点というより、本人の財産と権利を守るための仕組みです。
一方で、家族が自由に財産を動かせると思って申し立てると、想像していた運用との違いに戸惑います。必要な行為と今後の管理期間を伝えたうえで、後見・保佐・補助のどれを検討するのか、申立て前に確認してください。
支払期限が迫っているときは、制度選びとは別に動きます
介護施設から入居費用の請求が来ている。入院費の支払期限が近い。固定資産税や修繕代を払わなければならない。
こうした状況では、家族信託か成年後見かを決めるまで何もしない、というわけにはいきません。
本人の預金から医療費や介護費を払いたい場合
本人の意思を確かめられない状態で、暗証番号を知っているからと家族が無断で現金を引き出すのは避けてください。
まず取引銀行へ、本人の現在の状態、必要な支払い、成年後見をまだ利用していないことを伝えます。
「本人が入院し、意思確認が難しい状態です。本人名義の預金から本人の入院費を支払う必要があります。銀行として検討できる対応と、必要書類を教えてください」
請求書、本人との関係が分かる書類、医療機関や施設の資料などを求められることがあります。実際に払戻しへ応じるか、どの方法を取るかは金融機関や事情によって異なり、必ず引き出せるわけではありません。
不動産の売却期限が迫っている場合
本人名義の不動産は、子どもが代わりに売却契約へ署名するだけでは処分できません。
買主や不動産会社から期限を示されていても、本人の意思能力や代理権に疑問があるまま進めないでください。
契約予定日、買主の有無、売却が必要な理由、登記事項証明書、査定書などを用意し、司法書士または弁護士へ伝えます。成年後見を利用する場合も、居住用不動産の処分には家庭裁判所の許可が必要になる場合があります。
詐欺や使い込みの心配がある場合
見知らぬ相手へ送金している、家族の一人が本人の通帳を持ち出した、多額の現金がなくなっているなど、すでに被害が疑われる場合は、通常の終活相談とは分けて考えます。
通帳履歴、契約書、振込先、電話やメッセージの記録を保存してください。新たな送金を止める必要がある場合は金融機関へ連絡し、詐欺や窃取が疑われるときは警察への相談も検討します。
きょうだい全員の同意がなければ家族信託はできないのか
一般に、契約による家族信託の当事者は、財産を託す委託者と、管理を引き受ける受託者です。すべてのきょうだいが契約当事者になるわけではありません。
だからといって、ほかのご家族へ何も伝えずに進めることが安全とは限りません。
特定の子どもだけが預金や不動産を管理する契約は、「財産を自分のものにしようとしているのではないか」と受け取られることがあります。本人のために作った契約でも、説明不足が疑いの種になります。
家族へ伝えるときは、制度名から話すより、目的から話した方が伝わります。
「母の財産を相続前に分けたい話ではないよ。母の介護費を母の財産から払い、ご実家が空き家になったときに管理できるようにする方法を検討している。契約内容と費用が分かった段階で、みんなにも見てもらいたい」
一方、親族間に強い対立がある、本人が一人の子どもを怖がっている、財産の移動がすでに始まっている場合は、家族会議だけで解決しようとしない方が安全です。本人と家族の利害が衝突していないかを含め、第三者を交えて進める必要があります。
間に合わせようとして、してはいけないこと
時間がないと感じるほど、手続きを先に進めたくなります。しかし、次の行為は問題を解決するどころか、後の争いを大きくする可能性があります。
- 契約内容を読まずに、署名する場所だけ本人へ示す
- 本人が答えられない部分を家族が代わりに答える
- 本人の手を持って署名させる
- 契約日を実際より前の日にする
- ほかの家族へ知られないよう、預金を子どもの口座へ移す
- 本人のキャッシュカードや暗証番号を無断で使う
- 家族信託をすれば相続税対策になると決めつける
- 費用総額や継続支援の内容を聞かずに契約する
家族信託は、本人の希望を実現するための制度です。家族が使いやすい財産管理へ作り替えることが目的ではありません。
「本人のためだから」という気持ちがあっても、本人の意思が置き去りになれば、契約の土台が崩れてしまいます。
今日決めるのは、契約ではなく「期限がある手続き一つ」です
今夜のうちに、家族信託と成年後見のどちらにするかを決める必要はありません。
まず、今後三か月ほどの間に、親御さん名義で行う必要がある手続きを一つ選んでください。
たとえば、次のようなものです。
- 介護施設費を本人の預金から支払う
- 空き家になるご実家を売却する
- 賃貸物件の修繕契約を結ぶ
- 定期預金を解約する
- 毎月の生活費を管理する
そして、その手続きの期限、本人名義の財産、現在困っていることを短くまとめます。
明日、家族信託を扱う司法書士や弁護士へ、次の一文から連絡してください。
「契約を依頼するかはまだ決めていません。本人が家族信託を理解して契約できる状態かと、難しい場合の別の方法を確認したいです」
「間に合うか、間に合わないか」を家族だけで決めなくて構いません。
家族信託が使えないという結論になっても、それは準備がすべて失敗したという意味ではありません。必要な支払い、財産管理、介護生活を分けて見れば、別の道を組み合わせることができます。
今日は契約書を作る日ではなく、親御さん名義で次に必要な手続きを一つ特定する日。それだけでも、焦りの中で動く方向が見えてきます。















